丹波栗の聖地巡礼 その2 和知

丹波栗 栽培日記
今回も栗栽培マニア的ですので、飽きたら適当にスルーして下さいませ。

丹波系の日本グリの原産地もしくは古くからの産地と考えられているのは

①兵庫県氷上郡小川村栗作郷(現在の丹波市山南町岩屋付近)  ②京都府船井郡京丹波町和知 ③京都府亀岡市本梅 ④大阪府能勢町倉垣 

です。そもそも江戸時代よりも前では、接木繁殖は一般的ではなかったとみられ、実生繁殖されるための大果系統の「母樹」が複数あったと考えるのが自然です。

丹波栗の歴史は平安時代、西暦927年ごろ成立の延喜式での「丹波の山中より生ずるものを上品とす」の記述からしばらく、公的文献での手掛かりは400年ほど掴めません。

次に公的文献に登場するのは、1351年。足利尊氏が上記①の栗作郷の久下氏を頼って石龕寺に身を寄せ、僧が丹波栗を差し出したところ「都をば出て落ち栗りの芽もあらば世に勝ち栗とならぬものかは」という句を詠んで再起を誓った「ててうち栗」伝説が太平記29巻に描かれています。「手々打」は昭和初期まで代表的な一品種でもありました。

江戸時代になると、亀岡市本梅周辺の旧家の古文書に宮中や徳川将軍に丹波栗献上の記録が残っています。③の本梅と④の倉垣は現在の府県境を跨ぐものの、実際にはほぼ同一地区と言って良いほど近接しており、亀岡から能勢に至る一帯は農家の副収入源として丹波栗産地形成をしていたものと見られます。銀寄、長興寺、乙宗、今北、霜かつぎ等の古くからの品種はこの一帯に起源するものです。

そして、②の和知は大果系統の丹波栗産地として江戸時代から有名で、園部藩の記録に将軍への献上が記録されています。そして和知は正月、毛長、女郎などの古いクリタマバチ以前の有力品種を生み出しています。さらに、竹岡林「丹波路」の記述が興味深い。「(和知町)一面クリ園の中に、樹齢150年以上の老木が20本余りも残り、その中で300年と言われる巨樹は木上秋太郎氏所有のクリ園に、(中略)まさに王者の風格」と、能勢の銀寄母樹よりも遥かに古い大木が、戦後の昭和まであったと記されています。現地の方の話では正月という品種の母樹ではないかとのお話でした。

大変残念ながら、この栗大木群は全て、銀寄母樹と同様にこの40年ほどでクリタマバチ等で全て枯死して失われているとのこと。生きていれば間違いなく丹波栗最古木でした。残念。こうした丹波系の古木は現在、広島県の「平子のタンバグリ」や宮城県の「日根牛の大栗」などごく少数全国に昔に散布されたものが生き残っているのみとなっています。

和知では現在では、代々続く栗栽培農家のYさんが、丹波栗マイスターとして見事に丹波栗栽培を再興されておられます。
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