大正元年初版の恩田鐡彌氏、村松春太郎氏共著による「実験 柿栗栽培法」博文館。
柿の綺麗なカラーイラストから始まる100年前の書籍で、これは栗も凄いものが期待できるか!と興奮気味に栗のページ進むも、栗は全体の6分の1程度の記述で、少々残念な内容でした。
特段の現代に通ずる栽培技術は記述されておらず、明治期までは栗は特に栽培技術が詳しく研究されていなかったことが推察されます。
今ではほぼ見かけなくなった品種としては、霜カツギ、晩生大丹波栗が「甘味に富み渋皮離れやすく」と記述あり。これは正しい情報なのか少し疑問。
また、消えてしまった品種、長光寺(長興寺)について記述があり、「甚だ大粒種にして(中略)甘味やや少なく渋皮離れ難く、かつ果実は中央より2個に割れやすく優良の品種とは称しがたし、然れども比較的早く市場に出づるをもって貴ばる。」とこのあと昭和期には消えていったことが納得できる理由が書かれています。
歴史的に振り返って見てみますとこの恩田氏による教科書は、茨城の栗が、千代田村の長谷川茂造氏、石岡町の兵藤直彦氏と水戸出身東大農学部出の指導者、八木岡新衛門氏によって大正中期以降に大発展を遂げる日本の栗農業夜明け前の文献です。
この書籍の発行後、1913年大正2年に京都府農事試験場綾部分場で第1回栗品種名称調査会が開催、さらに八木岡新衛門氏は1915年大正4年に「栗の栽培」を記し、70品種の詳細を記述されました。
ちなみに、既存品種を一掃したクリタマバチは第二次世界大戦戦時中の1941年昭和16年岡山県から始まったと記録されています。
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